新潟で11月28日(土)開催された新しい社会・プロジェクト暮らしと政治スクール第3弾「なぜ私が市議になったか」で次の内容で講演をしました。

市議を志すに至った背景と今の思いを私なりにまとめてみました。

2015年 11月28日(土)シリーズ「暮らしと政治スクール」

 

テーマ「なぜ市議になったか」

 

岡谷市

諏訪湖の西。人口5万6百人。あゝ野麦峠。東洋のスイス。高架。

父:歌を理解するためには現地へ赴くことと、その時の歴史を知る事。

父との山歩き。「萩の花、尾花、葛花、撫子の花、また藤袴、朝顔の花」

信濃の真弓。「みこも刈る 信濃の真弓我が引かば 貴人さびて 否と言はむ」

母:母は私にとって全ての面での師匠。悔いることのない生き方をする術を教えてくれた人

女学生たちの太平洋戦争。

 

初舞台1990年「グスコーブドリの伝記」

冷害による大飢饉を回避させようと、火山を人工的に噴火させる、噴火で炭酸ガスを放出してその温室効果を利用する。ところがこの計画は、誰かが最後に残り犠牲にならざるを得なかった。ブドリはその一人になる。その時、クーボー博士や先輩のペンネン技師を説得するセリフ

「世界が幸せにならないうちは僕の幸せはないんです」

特に市議になってからは、このセリフの事をよく思い出すし考えます。

 

「子午線の祀り」

思いがけない舞台に巡り合いました。

月が子午線を超えたとき、潮の流れが一気に変わる。それを境に、戦況も一気に変わる。絶大なる自然の流れがあって、その中で人々が精いっぱい生きる。そして死んでゆく。作品の素晴らしさもさることながら、能、歌舞伎、新劇の第一線で活躍する方々の稽古に圧倒されてばかりの毎日でした。

 

以降、様々な舞台を経験しますが、生活費はバイトで稼ぐ生活。友人の「好きだからできるんだよね」という言葉が突き刺さっていた。職業という事が、食べる為のお金を稼ぐことであれば、私はフリーターの何者でもありませんでした。ただ、どんなに生活が行き詰っていても、私は人が豊かな気持ちで生きていってほしい、そのために演劇活動をやっていることに誇りを持っていました。表現とはそれほど生きる、生き抜くという点で大事なことだと思っていました。

役所へ行けば低所得者の括りの中に入る。(半年の短期間保険証)(社会に貢献できない人間としてみられているんだなと考える。

20歳の頃、ある時バイトで公団の募集のハガキを配っていた時、50、60代の男性が無言で胸のバッジを見せてきました。国会議員だったのか弁護士だったのか、威圧感のある行為でした。ハガキを配ることは生活費を稼ぐ一つの方法でしたし、道路使用許可のとれている正当なバイトでしたが、社会的地位、社会的格差を感じました。物事を左右するのは、社会的な信用で、社会的な信用とは、とりもなおさずお金の有無なのだと痛感した。いまだにそのあり方に反抗し、クレジットカードは1枚も持っていません。

 

母の死  本当にやりたかった生きる道

母が倒れてから、死というものを常に考えるようになった。

29歳の時母が亡くなり、茨城での生活。たなご。自然の中のたったひとつ。

人間が人間である為には自然の営みとともになくてはだめなのだと思うようになった。そこから、民俗学の本を読むようになる。森羅万象すべて神が宿り、いい神も悪い神もいて、みんな喜怒哀楽の感情をあらわにする。人の力の及ばない全ての自然が畏怖の対象だった。その中から物語が生まれる。

 語りは、舞台の上で、ひとつの人物だけ演じていればよいわけではない。常に何かになる。それは登場人物だけではない。自然であったり、運命そのものであったりする。これは生きることの、世の在り方の真実に迫るものだと思っている。

「みなまた海のこえ」石牟礼道子。

「風土の韻というものがあると思います」

風土の伝えて来た韻のようなもの。日本人にはそれを伝えることができていたと思うけれど、今はそれがなくなったから怖い」

ガーゴ、カッパ。

語りと政治とのつながり

父の介護、遠距離介護が最終的にどうなっていくのかという不安。夫の死。

「なんでまた」とよく聞かれます。

人は自然の中のひとつ。そして一人ひとり、精いっぱい表現をすべきである。

選挙期間中、訪ねたお宅で、高校の美術の先生と話す機会があった。

東北視察・石巻日々新聞「文化やスポーツの持つ力」

10月議会

 

今後

演劇をやってきた意味